【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う:2ページ目
浪々の青春時代
長兄や母たちと合流した瑣吉は天明元年(1781年)に元服。改名して左七郎興邦(さしちろう おきくに)と名乗ります。
戸田家の徒士(かち)として士官し、奉公する傍らで俳諧・医術・儒学などを学びました。
- 俳諧:越谷吾山(こしがや ござん)
- 医術:山本宗洪(そうこう)・山本宗英(そうえい)
- 儒学:黒沢右仲(うちゅう)・亀田鵬斎(ほうさい)
俳諧については天明3年(1783年)に吾山撰句集『東海藻』へ入選したほか、天明7年(1787年)には自身で『俳諧古文庫』をまとめます。
幼少期から培ってきた文才を発揮しましたが、どうやら性格には難があったようでした。
せっかく長兄の伝手で仕官できた戸田家を辞し、その後あちこちの家を転々とします。
また悪い遊びでも覚えたのか、放蕩無頼の生活を送り、家にも寄りつかなくなりました。
天明5年(1785年)に母が危篤に陥っても連絡がつかず、兄たちが必死に奔走して何とか臨終に立ち会わせたそうです。
そんな弟は放っておけと思いますが、兄たちが情け深かったのか、あるいは母の切望だったのかも知れませんね。
貧しい暮らしが続く中、次兄の興春が若くして亡くなるなど、この時期は瑣吉の身辺で不幸が続きました。
