【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う:3ページ目
武士から町人へ
瑣吉が戯作者デビューを果たしたのは、寛政2年(1790年)に山東京伝(さんとう きょうでん)を訪ねて弟子入りを申し出たのがキッカケです。
『御存商売物』よりこのかた、人気作家となっていた京伝。しかし瑣吉の弟子入りを断りました。
しかしそこで諦めるような瑣吉ではありません。しつこく、もとい熱心に頼んだからか、弟子ではなく出入りすることを許されます。
するとちゃっかりしたもので、寛政3年(1791年)に黄表紙デビューを果たした『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』では、「京伝門人」大栄山人(だいえいさんじん)と名乗りました。
この年は京伝が筆禍事件で手鎖の刑を受けており、いつしか瑣吉は京伝の代筆を務めるようになります。
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また同年の秋には自宅が洪水に見舞われ、京伝宅へ転がり込みました。人の懐に飛び込むのが、とても上手かったようですね。
そんな瑣吉が蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)と出会ったのは寛政4年(1792年)。京伝の紹介で、蔦屋の手代として雇われることになります。
この時、武士が商人に仕えることを恥じ入った瑣吉は、武士の身分を捨てました。
名前を興邦から解(とく/とくる)と改め、通称も左七郎から瑣吉とします。
※滝沢瑣吉という名前は、この時から名乗りました。

