江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償:3ページ目
機能不全の「仁政」に喝
さらに一七八二年(天明二)から、天明の飢饉が起きます。このときの幕府の対応は、江戸を集中的に救おうとするものであり、地方の農村への対応は十分ではありませんでした。
これは前述した「仁政」のあり方とは異なるものでした。百姓を救済するはずの為政者が、その責務を果たさなかったことになります。
これらの要因によって、百姓一揆の作法の前提であった仁政イデオロギー自体が機能不全に陥ったのです。
こうして、百姓身分をアピールして仁政を求めるのとは異なる実力行使が、数少ないながらも起こりはじめたのでしょう。
ただし地域的な違いもあり、機内では強訴・打ちこわしなどの非合法な手段を用いず、訴願だけに徹していたケースも多くあります。
それとは対照的に、関東では百姓一揆の作法を大きく踏み外した非合法の行為が起こりはじめたのです。
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参考資料:藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代(中公新書・2020/8/20)』
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