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江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償

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作法の逸脱

一方、一九世紀に画期を見出す研究者もいます。島原天草一揆以降に起きた一四三〇件の一揆のうち、武器の携行は一五件、家屋への放火は一四件ありましたが、そのうち前者は一四件、後者は一二件が、一九世紀に起きていました。

約一四〇〇件のうち武器の携行や放火が十数件しか見られないこと自体、仁政イデオロギーに基づく支配体制の強靭さ、および一揆の作法の強固さをうかがわせます。

それでも、放火や武器の携行が一九世紀に集中していることには大きな意味があるといえるでしょう。

つまり近世の初期に暴力的だった一揆は、いったんは仁政イデオロギーに基づく非暴力的なものへと定式化されましたが、一八世紀後半あたりから百姓一揆が変質しはじめ、一八世紀末から一九世紀初頭以降、作法を逸脱する事例が現れた、といえそうです。

それでは、なぜ一九世紀に作法の逸脱が始まったのでしょうか。

その理由として、一八世紀に商品経済が進展し、それにともなって貧富の格差が拡大するという事態に対して、幕藩領主が有効な政策を打ち出せなかったことが挙げられます。

一七八一年(天明元)に田沼意次が幕府の実権を握り、重商主義の政策をとったことはよく知られています。

独占的な商工業者の組合を株仲間として公認し、運上・冥加といった間接税を課すことで、幕府の収入源を確保しようとしたのです。

この政策によって、物流が活発化し、特に江戸・大坂などの大都市に向けて商品作物が多く出荷されるようになりました。

しかしその一方で、大都市の経済圏からはずれた村々は貧困化し、大都市へと人が流れてしまうなど、荒廃が進みました。

3ページ目 機能不全の「仁政」に喝

 

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