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江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償

江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償

再暴力化する一揆

戦国時代の血で血を洗う殺し合いの時代の経験を経て、江戸時代の太平の世は実現されました。

太平の世とはつまり「暴力で解決するのは割に合わない」とみんなが気付く時代のことです。

「暴力で解決は割に合わない!」江戸時代の百姓一揆で武器が使われなかった合理的すぎる理由

一揆に武器なし江戸時代の農民は、豊臣秀吉の「刀狩り」以降、完全に武装解除されたわけではありません。あくまでも、刀狩りでターゲットにされたのは「刀」でした。刀狩りは、農民から刀を取り上げるこ…

それゆえ、島原一揆による支配階級と農民の苛烈な殺し合いを経て、百姓一揆の作法はより穏健なものへと変わっていきました。また支配階級側も、暴力による弾圧ではなく「仁政」によって農民たちを統率しようとします。

しかし時代が下り、幕藩体制が崩れると、百姓一揆の作法もまた揺らいでいきました。研究では、その画期として二つの時期が指摘されています。

画期となったのは一八世紀後半です。この時期には商品経済の発達にともなって百姓一揆が広域的になりました。

また、打ちこわしや焼き打ちなど脅迫の文言を含む廻状によって動員がかけられるようになりました。逃散が増え、強訴の際得物として竹槍が持ち出されはじめたといいます。

竹槍で殺害が行われたケースは、江戸時代を通じて二例にとどまるものの、それまでに見られなかった武器が持ち出された点で、従来の作法とは異なる形態に変化したといえるでしょう。

2ページ目 作法の逸脱

 

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