「裏の吉原」江戸時代に庶民が通った“非公認な裏の色街” 岡場所の知られざる実態:2ページ目
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宿場の「飯盛女」
江戸時代の日本には、至るところに遊里が存在していました。元禄3年(1690)に来日したドイツ人医師のケンペルは、著書『江戸参府旅行日記』で「日本の公共の旅館は、公の娼家となっている」と述べています。
もちろん、すべての旅館が娼館ではないのですが、宿場の旅籠屋には飯盛女という遊女が存在していました。そのため、あながち間違っているとも言い切れないところもあったのです。
飯盛女は、本来は食事の世話をする係です。しかし、いつしか殿方の下の世話もするようになりました。
漫画『無限の住人』では江戸時代のさまざまな階層の人々が登場しますが、あの作品にも、非常に魅力的で印象深い飯盛女が登場したのを覚えている人も多いでしょう。
旅行客が飯盛女を買えば売り上げも伸びるので、旅籠屋も魅力的な飯盛女を揃えて客を呼び込みます。
幕府は「旅籠1軒につき飯盛女は2名まで」と定めましたが、「下女」の名目で女郎を雇うなど、あの手この手で法の網目をくぐる形で彼らは商売に出していました。
それだけ人々は女郎を必要としていたのでしょう。
品川、内藤新宿、板橋、千住は江戸の玄関口ということもあり、旅行者だけでなく近隣の人たちも利用していました。
よってその地域には飯盛女も大勢おり、『仕掛人藤枝梅安』の「梅安影法師春雷」には、千住に飯盛女を置く旅籠が500軒以上あったことが記されています。
江戸時代には多くの人が旅に出ましたが、途中で女郎買いをするのも、旅人の楽しみのひとつだったのでしょう。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書画像:photoAC,Wikipedia
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