「裏の吉原」江戸時代に庶民が通った“非公認な裏の色街” 岡場所の知られざる実態
幕府非公認の色街
幕府公認の遊廓だった吉原ですが、利用できるのは大名や旗本、諸藩の留守居役、豪商の放蕩息子など富裕層に限られていました。
よって庶民や下級武士は岡場所や宿場など、幕府非公認の色街に足を運ぶようになります。
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では、この非公認の色街の実態はどのようなものだったのでしょうか。
もともと岡場所の「岡」は「傍目」などと同じく、「脇」や「外」という意味です。岡場所は宝暦~天明年間(1751~1789)に最盛期を迎え、江戸市中だけでも70ヶ所以上が存在していました。
有名な岡場所としては、深川や上野山下、根津などが挙げられます。特に人気だったのは深川で、天保8年(1837)頃には500人近くの遊女がいたといいます。
水運が発達していた深川では舟の移動がメインで、船宿が客を料理屋に案内したり、遊女や芸者の手配をしていました。
根津神社の門前も江戸の中心部に近かったこともあり「岡場所第一の遊里」と呼ばれています。
岡場所の娼婦にも値段の差があり、1回の行為が十数文から数十文という格安の街娼がいる一方で、それなりの値段の娼婦もいました。
岡場所でも特に安価だったのが「切見世」で、別名「ちょんの間」と呼ばれました。時間にしてわずか10分ほどの情交ですが、一応室内の布団で交合できるので、庶民からは人気があったようです。これは現代で例えるなら……いや、やめておきましょう。
対立する吉原の路線変更
一方、こうした非公認の存在を吉原が黙って見ているはずがありません。
吉原は幕府から公認を得る代わりに、それなりの冥加金を納めていました。そのため岡場所をいつまでものさばらせるわけにはいかず、幕府に対して摘発を求めます。
その結果、幕府も岡場所を取り締まりの対象とし、松平定信が行った寛政の改革では事実上壊滅の憂き目に遭っています。しかし、定信が失脚すると徐々に復活しました。
岡場所は吉原に比べると格式張っておらず、利用料金も安価でした。そのため多くの江戸っ子が流れていきましたが、このような現状に対応するため、吉原も江戸時代後期は大衆化路線にシフトチェンジしていきます。
それまでの高級遊廓時代の吉原では、高級遊女は高い教養と技芸が必要とされていました。
しかし大衆化路線にシフトすると、それらは以前ほど必要とされなくなります。一方で、芸事に秀でた女性を色から手を引かせ、色を売る遊女と芸を売る芸者の棲み分けが明確になっていきました。



