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『べらぼう』片岡鶴太郎の名演が話題、鳥山石燕の生涯と「辞世の句」歌麿との実際の関係とは

『べらぼう』片岡鶴太郎の名演が話題、鳥山石燕の生涯と「辞世の句」歌麿との実際の関係とは

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第5回放送「蔦に唐丸、因果の蔓」で唐丸(歌麿)との出会いが回想されて以来、第30回放送「人まね歌麿」で再会した鳥山石燕(片岡鶴太郎)。

喜多川歌麿(染谷将太)が大きく成長する上で大きな役割を果たすこの老絵師は、いったい何者だったのでしょうか?

今回は妖怪画の権威として世に知られる鳥山石燕(とりやま せきえん)について、その生涯をたどってみたいと思います。

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妖怪画の大御所、歌麿の人生に大きな影響を与えた師

徳川将軍家に仕える狩野派に絵を学び、安永5年(1776)に『画図百鬼夜行』を刊行し、妖怪画の名手として注目をあびる。喜多川歌麿や恋川春町など数多くの弟子を持つ。特に歌麿には、小さいころから目をかけ、その“才能の目覚め”にきっかけを与えていく。

※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。

狩野派の絵師として活躍

鳥山石燕は正徳2年(1712年)ごろ、江戸幕府に仕える御坊主の家に誕生しました。実名は佐野豊房(さの とよふさ)、ほか玉樹軒(ぎょくじゅけん)・月窓(げっそう)・船月堂(せんげつどう)・零陵堂(れいりょうどう)等と号しました。

絵師としては狩野派に属し、狩野周信(かのう ちかのぶ)や狩野玉燕(ぎょくえん)に師事します。一時は御用絵師を務めていたとも言いますが、詳しいことは分かっていません。

美人画などの肉筆作品や、寺社に奉納する額絵などを多く手がけ、額絵には歌舞伎役者の似顔を描いたことで評判を集めました。

また浮世絵版画の「拭きぼかし」技法を発明、安永3年(1774年)に刊行した自身の画集『鳥山彦(とりやまびこ。石燕画譜)』に用いたことでも知られています。

拭きぼかしとは版木の一部(色をぼかしたい部分)を濡れ雑巾で拭き、その上から絵具を乗せて刷毛で摺る技法です。こうすると水分に絵具が広がり、ぼやけた色彩表現ができました。

濡れ雑巾で真っすぐに拭くのを「一文字ぼかし」、それを画面最上部に用いると「天ぼかし」と呼ばれます。

天保年間(1831~1845年)の初期から世に広がった拭きぼかしの技法を、石燕は逸早く用いていたそうです。

石燕は多くの弟子をとっており、その中には歌川豊春(うたがわ とよはる)や栄松斎長喜(えいしょうさい ちょうき)、恋川春町そして喜多川歌麿などがいました。

2ページ目 喜多川歌麿と鳥山石燕の実際の関係

 

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