実は江戸時代の「百姓一揆」は作法やルールが決まっていた!意外な“一揆マナー”の実態
百姓一揆の種類
普通、百姓一揆というと、竹槍や蓆旗を持った農民が領主や村役人といった政治・社会の権力者と対決したようなイメージがありますね。
しかし、江戸時代の百姓一揆には一定の作法があり、竹槍などの武器を持ち出すことはほとんどありませんでした。
驚く人も多いと思いますが、百姓一揆は暴力的ではなかったのです。今回はその実態について説明します。
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まずは、合法的な領主権力への申し立てである訴願について確認しておきましょう。
訴願とは、年貢役の軽減などを村役人が領主に文書で願い訴えることです。これは合法的な行為と見なされ、罰せられることはありませんでした。
しかし訴願の内容が認められなかった場合、百姓は非合法の行為に出て、訴願の実行を領主に求めることがありました。そこに至って、初めて百姓一揆が起きるわけです。
何を百姓一揆と見なすかは、その定義については諸説ありますが、近世史研究者の中には徒党・強訴・逃散の三種類で説明している人もいます。
まず、徒党は一揆集団の結成を指します。具体的には、目的や禁止事項などを記した起請文・一揆契状を作り、神水を回し飲むことで集団が結成されました。
そして強訴は百姓が集団となって城下などに押しかけて訴願内容の実行を求めることを差します。
最後の逃散は、まさに字の如く、年貢・夫役といった百姓の務めを放棄して逃げてしまうことです。

