実は江戸時代の「百姓一揆」は作法やルールが決まっていた!意外な“一揆マナー”の実態:2ページ目
放火はタブー
前述の徒党・強訴・逃散はいずれも非合法とされる行為であり、主だった者は裁かれました。
このほか、合法的な訴願と非合法の徒党・強訴・逃散との間に位置する行為として、越訴というのもありました。本来訴えるべき役人(役所)を飛び越して、より上級の役人(役所)に訴願することです。
このように、百姓一揆とひと口に言っても権力者と対抗するためにやみくもに暴力をふるうものではなく、その実態は、訴願の要求内容を聞き入れられるように行うものだったのです。そこには一定の作法と呼ぶべき慣習がありました。
一揆集団が結成される際に作成された連判状(一揆契状)には、一揆の目的や経費の調達に関する条目のほか、規律を維持するために、飲酒の禁止、放火・盗みの禁止、蓑笠の着用などの行動統制に関わる条目が含まれていました。
そう、一揆に踏み切った際の百姓の出で立ちや行動は、掟で定められていたのです。
百姓一揆で、特にタブーとされた行為の一つは放火でした。実際に、17~18世紀に起きた百姓一揆の記録を見ると、放火が行われたのは二件のみだったといいます。
もっとも見方を変えれば、そうしたルールを設定しないと、百姓一揆を起こした群集は暴徒と化して放火もしかねないということだったのでしょう。
