敵将・秀吉も認めた!主君・柴田勝家を救うため命を賭した若武者・毛受勝照の最期【後編】:2ページ目
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敵も認めた、まっすぐな心
この出来事には、敵だった秀吉も心を動かされたと言われています。戦後、秀吉は毛受兄弟の首を母親の元へ返すという、異例の計らいをしました。勝照の忠義と誠実さを、敵の将ですら認めざるを得なかった。それが、彼の生き様の重さを物語っています。
その後、毛受家の子孫は尾張徳川家に仕え、明治時代には、元の姓である水野を名乗る家もあったそうです。
毛受勝照は、大名でもなく、軍を率いる将軍でもありません。後世の歴史書に大きく載ることもないでしょう。しかし、名を残さなくても、人々の心に残った人、それが彼でした。
12歳で家を出て、25歳で命を落とすまで、彼が守りたかったのは「忠義」だけだったのかもしれません。この時代、多くの武将が歴史に名を残しました。でも、名を残さなくても、人々の心に残った人がいた。
その一人が、毛受勝照だったのです。
栄華も、領地も、記録に残る勲功もいらなかった。彼が選んだのは、「だれかのために生きる」という、ただ一つの道でした。
主君の名に恥じぬように。家族に誇れる生き方をするように。そして、命の終わりまで、まっすぐに、うしろをふり返らずに。その姿に、敵でさえ頭を垂れたといいます。
たとえ目立たなくても、たとえ時代に名を刻まれなくても、人の心に火をともすような生きざまは、確かにあった――そして、今を生きる私たちにも、そっと問いかけてくるのです。
「あなたが、命を使いたいものは、なんですか?」と。
参考文献:スタンダーズ監修『信長の家臣団と光秀対秀吉』スタンダーズ、2019
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