『べらぼう』明暗分かれた“桜”…田沼意知と誰袖の幸せな桜と、追い詰められ悲劇を招いた佐野の枯れ桜【後編】
大河「べらぼう」の27回『願わくば花の下にて春死なん』。
吉原の桜並木を見上げながら、「かをり、とびきり幸せんなれよ。二人で」 と、蔦重(横浜流星)言われ、「言われずとも。誰よりも幸せな二人に」と答える誰袖(福原遥)。
祝福するようにキラキラと輝きながら舞い落ちる桜。
幸せの象徴のような“桜”があるかと思えば、同じ満開でも「本来なら“うちの桜”だったのに」と無念の思いで見上げる“桜”もあり。
そして、花を咲かせることのできない老木なのに、なお人間を支配し続ける“家”の象徴である“桜”も。
【前編】では、相思相愛な花魁・誰袖(福原遥)と田沼意知(宮沢氷魚)、瀬川に約束した“吉原の女郎を幸せにする”というべらぼうな夢を忘れていなかった蔦重(横浜流星)と、彼らを彩る満開の桜の話を回想しました。
『べらぼう』胸が詰まる“桜”の演出…田沼意知と誰袖の幸せな桜、悲劇を招いた佐野の枯れ桜【前編】
【後編】では、夢や希望や感動を与えるはずの美しい桜が、逆に人の気持ちを支配し無念さを煽り絶望に追いやってしまう存在になってしまった……そんな佐野政言(矢本悠馬)にとっての “桜” “父と息子”を考察します。
幸せと不幸が層になって同時に描かれていく
一緒に過せる日を夢みて思わず微笑むほど幸せな男女。互いの能力を認め合い“政”を語らいながら楽しそうな父と息子。反面、不幸の坂を転がり落ちていく報われぬ男の葛藤する姿。
27回『願わくば花の下にて春死なん』は、この三層が重なり合い、残酷なほど明暗がはっきりと描かれていました。
史実でも佐野政言は、田沼意知に刃傷沙汰を起こしたことで知られる幕臣です。
当時、佐野政言が、田沼意次(渡辺謙)という最高権力者の息子で若年寄りの要職に就いたばかりの意知(宮沢氷魚)を将軍のお膝元で刃傷におよんだ動機については、さまざまな噂が流れました。
佐野の系図を田沼家に貸したのに返さなかった・「佐野大明神」という神社を「田沼大明神」という名前に変えた・佐野家の七曜の旗を貸したら返さなかった・金を贈るも昇進させてくれなかった・将軍の鷹狩りの際、政言が鴨を射止めたが意知のせいで手柄が認められなかった……などいろいろあります。
ドラマの中でも、その噂を取り入れつつ、佐野政言のキャラクターも丁寧に描かれていました。
田沼派の勘定組頭・土山宗次郎(柳俊太郎)とコネをつくろうと、長谷川平蔵(中村隼人)らの狂歌会に訪れるも、押しの強いキャラに囲まれ気後れして挨拶できずに去っていってしまったり。
老いた父・政豊を桜の木の近くに連れ出し「今年も見事に咲きましたな」と話しかけても「ところで、佐野の桜はいつ咲くのだ?」と返され、寂しそうに「もう…咲いておりますよ。父上」と答えたり。
引っ込み思案で、コミュニケーションが苦手で、遠慮がちで、内面にストレスを溜めてしまいそうな人柄のうえ、家では認知症になり判断力を失っている父親の介護。
たぶん幼少の頃から、姉妹ばかりのなかでたった一人の“息子”だったゆえ、父親から激重な期待とプレッシャーをかけ続けられてきたのではないでしょうか。父親は認知症になってから、さらに政言への接し方がきつくなったような感じがします。
これでは、精神的に疲弊し追い詰められていくのも不思議ではありません。



