
家督を継げない少年だった足利尊氏、なぜ幕府を倒す大逆転劇を起こせたのか?
足利尊氏(あしかが たかうじ)は、後に室町幕府の初代将軍となる人物ですが、若い頃の彼は、家を継ぐことすら期待されていない立場にありました。名門・足利家に生まれながらも、当主の候補とは見なされていなかったのです。
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その背景には、家族構成の複雑さがあります。尊氏の父・足利貞氏は、幕府の中心勢力である北条氏と深く結びついた有力な御家人でした。足利家では、北条家の娘を正室に迎えるのが習わしとなっており、その正室との間に生まれた男子こそが家の跡を継ぐとされていました。しかし、尊氏の母・上杉清子)(きよこ)は、正室ではなく家女房、つまり側室にあたる存在でした。
このような状況の中で、尊氏には正妻の子として生まれた異母兄・高義がいました。高義は北条氏の血を引き、家督を継ぐ嫡男として育てられていました。実際、彼は十九歳の時に正式に家督を譲られています。しかし、そのわずか一年後に病でこの世を去ることとなります。
普通であれば次の男子が家を継ぐ流れになりますが、尊氏の場合はそうはなりませんでした。父・貞氏はその後もしばらく自ら家を管理し、尊氏をすぐに当主とはしませんでした。尊氏が元服した際の通称は「又太郎」とされており、これは足利家の嫡男が代々名乗る「三郎」ではありません。この点からも、当時の尊氏が家督継承者とは見なされていなかったことがうかがえます。
さらに、尊氏は十代のころ、家臣筋にあたる加古基氏の娘との間に子どもをもうけています。その長男・竹若はのちに戦死しますが、この婚姻関係からも、尊氏の地位が当初は高くなかったことが読み取れます。
ところが、時代の流れとともに尊氏の立場にも変化が起きていきます。
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