家督を継げない少年だった足利尊氏、なぜ幕府を倒す大逆転劇を起こせたのか?:2ページ目
十五歳の時、彼は朝廷から特別な待遇で位階を授けられます。この昇進は、北条氏の中でも上位の家柄と肩を並べるほどのものでした。やがて、尊氏は赤橋守時の妹である登子(とうし / なりこ)を正室として迎えることになります。赤橋氏は北条家の有力な分家で、守時自身も後に幕府の執権となる人物です。こうして尊氏は、ようやく足利家の正統な後継者としての地位を固めていきました。
1331年、父・貞氏の死去により、尊氏は二十六歳で家の当主となります。その頃、朝廷では後醍醐天皇が幕府に対して兵を挙げていました。天皇は最初に笠置山に立てこもって挙兵しますが敗北し、隠岐の島へと流されてしまいます。しかし、その後もあきらめず、脱出して船上山で再び倒幕を試みます。
尊氏は、当初は幕府の命を受け、天皇軍の追討を命じられます。ところが、遠征の途中で彼は大きな決断を下します。幕府を離れ、後醍醐天皇側につくことを選びました。
この決断を経て、尊氏は兵を率いて京都に進み、幕府の西の要所である六波羅探題を攻略します。この勝利により、幕府の支配体制は大きく崩れ、関東では新田義貞が鎌倉へ攻め入り、ついに鎌倉幕府は滅亡します。
幕府が崩壊した当初、尊氏は後醍醐天皇の協力者として行動していました。しかし、すぐに両者の間に溝が生じます。天皇による新しい政治体制「建武の新政」は、多くの武士の不満を呼び、尊氏自身も次第に天皇と対立するようになります。
そしてついに、尊氏は新たな武家政権の樹立を決意し、自ら幕府を開くに至ります。それこそが、のちの室町幕府です。
歴史の転換点は、いつも必然のように見えて、実は誰かの選択の積み重ねによって形づくられています。もともと家を継ぐ立場ではなかった少年が、家の名を背負い、幕府を倒し、新たな政権を打ち立てる――その背後には、自らの信じた道を貫こうとする力があったのです。
参考
- 桑田忠親『足利将軍列伝』(1975 秋田書店)
- 森茂暁『建武政権―後醍醐天皇の時代』(2012 講談社)
- 清水克行『足利尊氏と関東』(2013 吉川弘文館)