大河「べらぼう」寛政の改革に抵抗!田沼意次を陰で支えた盟友・松平康福(相島一之)の生涯:2ページ目
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ともあれ40数年の道程を経て老中首座についた松平康福。この辺りが人生の頂点だったのかも知れません。
天明4年(1784年)には娘婿であった田沼意知(意次の嫡男)が佐野政言(まさこと)に斬られて死亡する事件が発生しました。
天明5年(1785年)には勝手掛の埋め合わせとばかり一万石の加増はあったものの、天明6年(1786年)に徳川家治が世を去り、頼みの田沼意次が失脚してしまいます。
「べらぼう」なぜ田沼意次(渡辺謙)は徹底的に排除された!?理由を江戸幕府の政治理念から考察【前編】
「10代家治は凡庸な将軍だった。しかし、一つだけ良いことをした。それは、田沼主殿頭意次を守ったこと。今日の繁栄があるのはそのおかげだ。私は後の世の人々に、そう思われたい。」[caption i…
翌天明7年(1787年)に徳川家斉(いえなり。家治の養子で一橋治済の子)が第11代将軍となるや、逆風は一気に加速しました。
御三卿(一橋家・田安家・清水家)が推していた松平定信の老中就任や、いわゆる寛政の改革に最後まで反対したものの、天明8年(1788年)に老中を免職。帝鑑間詰(ていかんのまづめ)に降格されてしまいます。
間もなく養子の松平康定(やすさだ。従弟)に家督を譲って隠居した康福は、翌寛政元年(1789年)2月8日に71歳で卒去したのでした。
終わりに
今回は、徳川吉宗から徳川家斉まで4代将軍に仕えた松平康福について、その生涯をたどってきました。
劇中ではあまり目立った活躍はないものの、田沼政権を支える盟友の一人として、重要な役割を担っていたようです。
果たして松平定信や一橋治済らを前に、どのような抵抗が描かれるのでしょうか。相島一之の好演に期待しています。
※参考文献:
- 長谷川強 校註『耳嚢』岩波文庫、1991年2月
- 早川和見『シリーズ藩物語 古河藩』現代書館、2011年2月
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