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幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】

幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】:4ページ目

壬申の乱で夫・大友を失い飛鳥浄御原宮に戻る

大海人皇子の吉野下野のわずか1年後、歴史は大きく動きました。672(天智10)年1月に大津宮で天智天皇が崩御すると、その7月、大海人は吉野にて近江朝廷打倒の兵を挙げました。これが、古代最大の内乱とされる壬申の乱です。

乱の勃発の原因や詳細な経緯については、また別の機会に述べたいと思いますが、結果は史実の通りわずか1カ月ほどで近江朝廷が敗北し、大友皇子は自害に追い込まれ、乱は収束を迎えます。

この壬申の乱において、全軍の司令官を務めたのは、大海人の第一皇子・高市皇子でした。彼は、父の挙兵の報を受けると、弟の大津皇子を伴って密かに大津京を脱出し、美濃国・不破で大海人軍と合流。そこで父から軍事の全権を委ねられ、勝利に大きく貢献しました。

しかし結果はどうであれ、大友の正妃であった十市皇女にとっては、父と夫が命を懸けて戦うという、耐えがたい事態となってしまったのです。十市はわずか24歳という若さで、夫・大友を失いました。

大海人は殊の外、十市を寵愛していたといわれます。そのような父が大津京を去り、さらに心の拠り所にしていたであろう弟たちも密かに脱出。そして、彼女にとっては、父と夫が敵として戦うという最悪のシナリオが現実となり、最終的に夫は敗れ、自ら命を絶ちました。

おそらく壬申の乱の後半、大津宮には十市をはじめ、わずかな後宮の女官しか残っていなかったことでしょう。近江朝廷軍の敗報がもたらされる中、十市は生き延び、高市皇子によって保護されたと考えられます。そのような過酷な状況下で、彼女の心労が極限に達していたとしても不思議ではありません。

壬申の乱後、十市は即位して天武天皇となった大海人に引き取られ、飛鳥浄御原宮で暮らすことになります。鎌倉時代に成立した『水鏡』や『宇治拾遺物語』には、十市が吉野にいる父に近江側の情報を流していたとする記述がありますが、これは後世の創作と見られています。もっとも、このような逸話が語られるほどに、十市と天武の間には深い親子の情があったのでしょう。

とはいえ、天武朝における彼女の立場は決して安穏なものではなかったはずです。夫・大友を失った悲しみを常に抱えながら、父のもとで暮らしていたことは想像に難くありません。

では[前編]はここまでにしましょう。[中編]では、壬申の乱の後に飛鳥に戻った十市皇女の動向とその死。そして、彼女に捧げた高市皇子の挽歌についてお話ししましょう。

【中編】の記事はこちら

日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察!幼馴染みから政治の犠牲に…【中編】

今回は3回にわたり奈良市高畑の比賣神社に祀られている飛鳥時代の皇女・十市皇女と、彼女へのひたむきな純愛を貫いた高市皇子について紹介します。2人は天智天皇から大化の改新事業を引き継ぎ、律令国家と…

※参考文献
板野博行著 『眠れないほどおもしろい 万葉集』王様文庫 2020年1月

 

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