幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】:3ページ目
大友と十市の皇子に危機感を覚える鸕野讃良
蘇我氏専制から大化の改新という激動の時代を自ら切り開いてきた天智天皇も、病には勝てませんでした。重篤に陥った彼は、大海人皇子(天武天皇)を病床に呼び寄せ、後事を託そうとします。
しかし、大海人は病気を理由に固辞し、今後の近江朝廷の体制として皇后・倭姫王による称制を行い、いずれは大友皇子と十市皇女の子を皇位に就けるという案を示しました。これは、天智が想定していた案と、奇しくも一致していました。
その後、大海人皇子は剃髪して出家し、鸕野讃良皇女(持統天皇)とその子・草壁皇子をはじめ、わずかな家族や舎人、女孺だけを伴って吉野・宮滝へと下りました。
ほどなくして天智が崩御すると、大友皇子による朝廷の主宰が始まります。しかし、大海人の大津京からの退去については、多くの宮廷人が「虎を野に放つようなものだ」と噂し、警戒感が広がったと伝えられています。
この大海人による吉野下野については、さまざまな説が唱えられています。中でも多くの説は、もし大海人が天智の要請を受け入れていれば、かえってその立場は危うくなり、天智によって抹殺されていた可能性があるとするものです。
つまり、天智にとっては大友を皇位につけることが最優先事項であり、そのためには乙巳の変以来、ともに労苦を重ねてきた実弟・大海人こそが、最大の障害にほかならなかったということになります。
しかし、これは本当なのでしょうか。先述のとおり、皇位継承権には母親の出自が大きく関係していました。確かに、天智が大友を寵愛していたのは事実でしょう。大友を太政大臣に任じたことからもそれは窺えます。
とはいえ、天智は飛鳥時代の規律の中で生きてきた人物です。もとより、大友がすんなりと皇位に就くことが難しいことは、天智自身が十分に理解していたはずです。そして大海人もまた、自らが皇位に強く執着すれば、兄とともに進めてきた改新事業が頓挫することになりかねないと考えたのではないでしょうか。
だからこそ大海人は一度身を引き、吉野で近江朝廷の動向を静観するという策を選んだのです。もし倭姫王と大友皇子による政治体制がうまく機能しなければ、いずれ皇位は大海人に回ってくるでしょうし、仮にうまくいったとしても、皇位は大友と十市の子が継ぐことになります。
しかし、このような大海人の考えに危機感を抱いていた人物が、彼のすぐ近くにいました。それが、大海人の正妃であった鸕野讃良皇女です。彼女の最大の懸念は、皇位を大友と十市の子が継ぐことでした。鸕野讃良にとって皇位継承者は、自らが産んだ草壁皇子以外には考えられなかったのです。



