幼馴染みから政治の犠牲に…日本最古の悲恋・十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察【前編】:2ページ目
天智は671(天智10)年、大友を太政大臣に任じて政治を補佐させました。さらに、皇太子として大海人がいたにもかかわらず、『日本書紀』によれば、その約束を破って大友を皇太子に定めたともされています。
飛鳥時代において皇位継承者となるためには、最低でも2つの条件を満たす必要がありました。一つは、天皇として政務を執るに足る年齢(おおむね30歳以上)であること。もう一つは、母親の出自が皇族または上級貴族(豪族)であることです。母の実家が地方豪族などの場合は“卑母”とみなされ、本人がいかに優秀であっても皇位継承者とはなれませんでした。
大友の母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)といい、伊賀地方の豪族の娘でした。そこで天智は、天武の皇女である十市を大友の正妃として迎えます。そこには、彼の描く将来的な展望があったのです。
天智は自らの死後、母の出自が原因で大友が即位できない可能性を考慮していたとされています。そこで、大友と十市の間に生まれる皇子に皇位を継がせようと考えたのです。
つまり、天皇の位は一時的に皇后である倭姫王(やまとひめのおおきみ)が継ぎ、大友と十市の皇子が成長するのを待つという意図でした。
こうして十市皇女は大友皇子の正妃となりました。この結婚には政治的な背景がありましたが、二人の仲は良好で、まもなく葛野王(かどののおう)が誕生します。
しかし、十市の幸せな結婚生活は長くは続きませんでした。そのきっかけは、671(天智10)年10月、天智が病に倒れたことでした。

