「大江戸八百八町」はウソ!?超巨大都市・江戸は行政区分や町奉行の管轄もめちゃくちゃだった:2ページ目
「朱引」によって確定
都市化が進む江戸の街に対して、三奉行の組織の基本構造に変化はありませんでした。
そのため、江戸の範囲=管轄エリアについての解釈はさまざまで、行政上の支障をきたすようになります。
そこで文政元年(1818)8月、目付の牧野助右衛門から、「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。
同年12月、老中の阿部正精は幕府の公式見解として、江戸の絵図に赤い線を引いて(朱引)、江戸の行政範囲を確定させます。
これによって、北は荒川・石神井川の下流(千住・板橋周辺)、東は中川(平井・亀戸周辺)、西は神田上水(代々木・角筈周辺)、南は南品川宿を含む目黒川(品川周辺)までが、江戸の御府内に定められました。
現在の行政区画でいえば、千代田区・中央区・港区・文京区・台東区のほぼ全域、新宿区や江東区、品川区、北区、豊島区、墨田区、渋谷区、板橋区、荒川区は一部までが江戸の範囲内だったのです。
これが幕府開設以来初めて正式に示された江戸の範囲で、内側は「朱引内」、外側は「朱引外」とも呼ばれました。
明治維新後の明治2年(1869)には新たな朱引が定められ、内側を「市街地」、外側を「郷村地」とされます。これは、明治11年(1878)の郡区町村編制法の施行まで続きました。
