手洗いをしっかりしよう!Japaaan

「大江戸八百八町」はウソ!?超巨大都市・江戸は行政区分や町奉行の管轄もめちゃくちゃだった

「大江戸八百八町」はウソ!?超巨大都市・江戸は行政区分や町奉行の管轄もめちゃくちゃだった

「八百八町」の本当の数は?

江戸時代の町奉行の職務は広範に渡っていました。その理由は、町奉行が江戸の街の行政を担う存在だったからです。

町奉行が担当した町方は「江戸八百八町」と謳われますが、これは実際に808の町があったわけではなく、大きな数の形容にすぎません

そもそも江戸の町人地の基本単位である「町」は、現在の行政区画とは意味合いが異なっていました。京間60間(約118メートル)四方の正方形を基準寸法として、町割が行われていたのです。

延宝年間(1673~1681)には江戸の原型がほぼでき上がり、この頃にすでに町の数は808を超えたと見られています。

そして正徳3年(1713)には総町数が933となって人口は100万人を超え、ロンドンやパリに劣らぬ大都市に成長しました。延享年間(1744~1748)には、総町数が1678に達しています。

バラバラの権限・管轄

一方で「江戸」がどこからどこまでの範囲なのかは、幕府の役人ですら曖昧でした。

江戸の支配系統も複雑で、町人地は町奉行、寺社地は寺社奉行、武家地は大目付や目付と、土地によってバラバラだったのです。

町奉行所は江戸市中の民政の一切を司り、行政・司法・警察を兼ねる重要なポジションでしたが、寺社地や武家地には町奉行所不可人の原則があり権限が及びませんでした。

そのため、「町奉行所の管轄区域=江戸の範囲」というわけではなかったのです。

江戸の町人地で起きた御用や訴訟は町奉行が、幕府の直轄領で起きた訴訟は勘定奉行が、寺社と関八州以外の私領の訴訟は寺社奉行所が担当しました。

これら三奉行は、幕府の最高裁判機関である評定所に列席して合議に加わっています。

『鬼平犯科帳』でも長谷川平蔵が、火盗改の権限の範囲を超える案件を「御仕置伺い」として老中に提出し、三奉行などが話し合って判決を決めるシーンがたびたび描かれていますね。

2ページ目 「朱引」によって確定

 

RELATED 関連する記事