「べらぼう」後に徹底排除される田沼意次(渡辺謙)!なぜ彼は”悪の汚職政治家”のレッテルを貼られたのか?【後編】:3ページ目
寛政異学の禁で商業を否定し、上下の秩序を強調する
では、吉宗の政治理論を基盤とした田沼意次と松平定信の代表的な政策には、どのようなものがあったのでしょうか。
田沼意次の代表的な政策としては、株仲間の奨励、長崎貿易の拡大、鉱山の開発、蝦夷地の開拓、印旛沼の干拓などが挙げられます。
一方、松平定信の代表的な政策には、囲米の実施、寛政異学の禁、棄捐令(きえんれい)などがあります。
このように、意沼は「重商主義」を、定信は「重農主義」を中心とする政策を打ち出しました。しばしば田沼政治の象徴とされる株仲間も、実は吉宗が享保の改革で導入した政策の一つでした。
田沼は、吉宗の政策を肌で感じながら、家重の側近として政務に携わっていました。そのため、吉宗の政策をよく理解し、時代に即して有効なものを自らの政権において継承・発展させたのでしょう。
これに対して、松平定信は、祖父・吉宗の生前に直接薫陶を受けていません。そのため、「米将軍」と称された祖父の「重農主義」の側面のみを重視していたのかもしれません。
そして、定信は「寛政異学の禁」を主要政策として打ち出しました。これは、農業と上下の秩序を重視する朱子学を正統な学問とし、たとえ同じ儒学であっても朱子学以外の学派を認めないという学問統制です。
ここからは少し極端な言い方になりますが、定信の考え方の一端としてご理解ください。
彼は、農業こそが産業の根幹であり、商業は卑しいものとする朱子学の教えを広めることで、意次の進めた「重商主義」を否定しました。
さらに、厳格な上下の秩序を重んじる朱子学は、足軽という最下級武士の出自である意次そのものと、前政権で彼が行った政策を否定する意味もあったと考えられます。
こうして、田沼意次は幕府から追われ、居城の相良城は破却され、徹底的に排除されました。そして、反田沼派により、賄賂ばかりが目立つ汚職政治家というイメージを植え付けられてしまったのです。
今までの映画やドラマで描かれてきた田沼意次像のほとんどは、賄賂として贈られた小判を手にいやらしい笑みを浮かべる、「悪」としてのイメージでした。
しかし、大河ドラマ【べらぼう】では、そうした意次像を一掃し、政治にひたむきで有能な人物として描かれています。今後の展開がますます楽しみですね。
