![【実在人物】病に倒れた”カボチャの旦那”こと大文字屋市兵衛(伊藤淳史)の生涯[大河べらぼう]](https://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2025/05/berabou_image-1280x720.jpg)
【実在人物】病に倒れた”カボチャの旦那”こと大文字屋市兵衛(伊藤淳史)の生涯[大河べらぼう]:2ページ目
差別に苦しんだ晩年
そんな大文字屋市兵衛の家族は、妻の仲(なか。相応内所)と養女(姪、姉の娘)の”まさ(秋風女房)”。どちらも女流狂歌師として活躍する才女です(カッコ内は狂歌師としての狂号)。
また婿養子の加保茶元成(岡本源兵衛)も狂歌師として活躍。大文字屋をより一層大きく発展させました。
しかし安永7年(1778年)、江戸市中の神田に屋敷を買おうとした時に事件が起きます。
町名主の益田又右衛門(ますだ またゑもん)が、市兵衛に対して「遊女屋に土地を売った前例がない」と主張。屋敷の購入を認めませんでした。
これに納得の行かない市兵衛は、町奉行所へ訴えを起こします。
「自分はかつて明和の大火で焼け出された折、浅草見附の外に別宅を購入している。だから前例はある」
しかし残念ながら、必死の訴えは退けられてしまいました。あくまで「神田での前例がない」ことが争点だったのでしょう。
訴えが退けられたのみならず、町奉行所から「遊女屋は四民(士農工商)の外で、穢多(えた。非人)に準ずる存在である。江戸市中に屋敷を求めるとは不届き千万」などといった理由で、急度叱(きっとしかり。厳重注意)に処せられてしまいました。
加えて町奉行所は吉原遊廓の忘八連中に「今後、江戸市中に屋敷を求めない」旨の誓約書を提出させたそうです。
まったくもって理不尽極まりない話ながら、基本的人権など認められていない時代のこと。忘八連中は涙をのむよりありませんでした。
そんなことがあって、安永9年(1780年)11月6日に世を去ります。享年ははっきりしませんが、60余歳(おおむね60〜64歳)とのことですから、遡って生年は正徳5年(1715年)ごろと考えられるでしょう。
法名は釈仏妙加保信士(しゃくぶつみょうかぼしんし)。よほどカボチャが好きだったのでしょうか。
終わりに
今回は「カボチャの旦那」こと大文字屋市兵衛について、その生涯をたどってきました。
演者の影響か忘八アベンジャーズ(本作ファンによる忘八連中への愛称)の中でも若手の印象でしたが、既に還暦を過ぎていました。
若木屋与八(本宮泰風)と俄祭り合戦を通じた友情など、視聴者を惹きつけた彼も、残念ながらそろそろ退場のようです。
その最期がどのように描かれるのか、心して見守っていきましょう。
※参考文献:
- 上田正昭ら編『日本人名大辞典』講談社、2001年12月
- 棚橋正博ら注『黄表紙 川柳 狂歌』小学館、1999年7月
- 森銑三 編『人物逸話辞典』東京堂出版、1987年5月