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”種貰い祭”と呼ばれた所以がコレ!神秘の奇祭「県祭り」に隠された禁断の風習とは?【後編】

”種貰い祭”と呼ばれた所以がコレ!神秘の奇祭「県祭り」に隠された禁断の風習とは?【後編】:2ページ目

あらゆる世俗的な縁が切れた神社・仏閣

古代の日本には「歌垣(うたがき)」という風習がありました。これは、男女が特定の時期に、特定の場所に集まり、飲食をしながら舞や歌の掛け合いを通じて求婚を行う風習でした。

この「歌垣」の習俗は、比較的近年まで残っていたとされ、祭りや神社・仏閣へのお籠りの際には、男女が自由に性を交わすことがあったとされます。

民俗学者・宮本常一氏は『忘れられた日本人』の中で、河内の太子堂の縁日には、男女の自由な交際が公然と行われていたと、次のように記述しています。

「この夜は男女ともに誰と寝てもよかった。(中略)女の子はみなきれいに着かざっていた。そうして男と手をとると、そのあたりの山の中にはいって、そこでねた。これはよい子だねをもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。(中略)この時はらんだ子は父なし子でも大事に育てたものである。」

そのようなことは、神社・仏閣への参籠においても同様でした。

時代は遡り、鎌倉中期のことですが、奈良の春日社の神主たちは、今後、神官や春日社の氏人たちが「社参の女人に対し、あるいは大宮・若宮の間、もしくは拝殿や到着殿のあたりにおいて、密通や慇懃な振る舞いをしてはならない」と誓約しています。

これは、春日社に参詣した女性に対して、そうした事態がたびたび起きていたことを物語っています。

また、同じ時期に後宇多天皇が石清水八幡宮に対して宣旨を出し、「宝殿参拝ならびに通夜の際、男女が雑居してはならないこと」と規定し、そのような状況を禁じています。

繰り返しになりますが、神前や仏前は神仏の力がおよぶ聖域であり、そこでは独身者に限らず、夫婦関係も持ち込まれることなく、あらゆる世俗的な縁が断たれる場でした。

だからこそ、男女が自由に関係を結ぶことが可能であり、実際に神社や寺院に参籠して子どもを授かったという話が古典に登場するのも、そうした現実が背景にあったと考えられます。

つまり、そこで授かった子供は、まさしく神の加護を得た子であったのです。

3ページ目 50年ほど前まで続いた驚きの風習

 

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