
富本豊志太夫/午之助(寛一郎)とはいったい何者?浄瑠璃・富本節の歴史をたどる【大河ドラマべらぼう】
(11)富本、仁義の馬面
初回放送日:2025年3月16日
蔦重(横浜流星)は人気の富本豊志太夫/午之助(寛一郎)から俄祭りへの参加を拒まれる。そこで浄瑠璃の元締め・鳥山検校(市原隼人)を訪ね瀬川(小芝風花)と再会する…※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
ソウルメイトであった瀬川(小芝風花)の身請けにより、切なくも美しい別れを迎えた蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)。
しかしこのまま終わりにはさせない脚本のいたずら。翌週にはあっさり再会させることで、蔦重と視聴者の心を弄ぶのでした。
この富本豊志太夫(とみもと とよしだゆう)とは何者なのでしょうか。
今回は富本豊志太夫を務める午之助(うまのすけ。寛一郎)について、紹介したいと思います。
富本節を創始した初代
富本豊志太夫とは寛延元年(1748年)、常磐津小文字太夫(ときわづ こもんじだゆう)が改名・富本節を創始した浄瑠璃師の名跡です。
又の名を富本豊前掾(とみもと ぶぜんのじょう。富本豊前)とも言いました。
豊前とは現代の大分県北部に当たる律令国名であり、掾とは国司の三等官に相当します。
実際に豊前の国司を務めていたわけではなく、浄瑠璃師の称号だったのでしょう。
師匠である常磐津文字太夫(もんじだゆう/もじだゆう)が創始した常磐津節の流れを汲み、常磐津節は豊後節(ぶんごぶし)浄瑠璃の流れを汲みました。
その豊後節は宮古路豊後掾(みやこぢ ぶんごのじょう)が謡っていたところ、元文4年(1739年)に禁止されたとか。
体制を直接または間接的に批判・風刺したり、あるいは極めて扇情的であったなど、当局にとって都合が悪かったのかも知れませんね。
【富本節に至る系譜】
……豊後節(宮古路豊後掾)→常磐津節(常磐津文字太夫)→富本節(初代富本豊志太夫)……
話を戻して初代富本豊志太夫が富本節を創始した際、出雲国松江藩主の松平宗衍(むねのぶ。雲州松平家第6代)は、これを称して「長生(ちょうせい。年朝嘉例寿、老松とも)」の歌詞を贈ったそうです。