
史実でも蔦屋重三郎とはライバル関係!版元・西村屋与八(西村まさ彦)とはどんな人物だったのか【大河べらぼう】
吉原細見『嗚呼御江戸』や画集『一目千本』の刊行を通して、出版人の資質に目覚め始めた蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう。横浜流星)。
最初は手探りで事業を起こし、悪戦苦闘する中で様々な出会いや対立がありました。
今回は蔦屋重三郎を触発したであろう西村屋与八(にしむらや よはち。西村まさ彦)を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。
西村屋与八のプロフィール
西村屋与八は三代まで続いた江戸時代の版元ですが、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」に登場するのは、恐らく初代と考えられます。
初代西村屋与八は生没年不詳、ただし寛政9~10年(1797~1798年)ごろに描かれた肖像に「七十一翁永寿堂日比野」とあります。
そこから遡ると、享保12~13年(1727~1728年)ごろに生まれた可能性があるかも知れません。
苗字は日比野(ひびの)、永寿堂(えいじゅどう)とも栄寿斎(~さい)とも号しました。
そんな西村屋与八は鳥居清満(とりい きよみつ)や鳥居清広(きよひろ)、鈴木春信(すずき はるのぶ)・一筆斎文調(いっぴつさい ぶんちょう)・勝川春章(かつかわ しゅんしょう)・勝川春英(しゅんえい)・歌川豊春(うたがわ とよはる)などの作品を世に送り出します。
やがて蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門(つるや きゑもん)と並び、天明・寛政期の江戸を代表する版元として存在感を示すのでした。
蔦屋重三郎との出会いと対立
蔦屋重三郎との関係は、安永6年(1777年)から天明2年(1782年)ごろにかけて版行した、礒田湖龍斎『雛形若菜初模様(ひながたわかなのはつもよう)』の合梓に始まります。
この『雛形若菜初模様』とは吉原遊女の絵姿を鮮やかに描いた当時のファッション情報紙と言えるでしょう。
礒田湖龍斎によって100枚以上が描かれたほか、同じ名前で鳥居清長(とりい きよなが)や勝川春山(かつかわ しゅんざん)も手がけています。
しかし西村屋与八は蔦屋重三郎と決別し、この『雛形若菜初模様』を単独で版行するようになりました。
二人の間に利権の対立でもあったのでしょうか。これを機に西村屋与八と蔦屋重三郎はライバル関係となったのでした。