【光る君へ】藤原彰子が念願の男児出産!皇子・敦成親王(後一条天皇)はどんな生涯をたどったのか?:2ページ目
道長四女・叔母の藤原威子が入内
ちなみに三条天皇が出した譲位の条件によって一度は後一条天皇の東宮となった敦明親王(あつあきら。三条天皇皇子)ですが、のち寛仁元年(1017年)に三条天皇が崩御すると、道長は約束を反故にします。
厳密には圧力をかけて東宮の座を辞退させたのでした。
道長「いやぁ、私としてはお約束を守りたかったのですが、敦明親王殿下のご意向とあっては尊重するしか……」とか何とか。
どの口が言うか(流石にこんな言い方はしてません)ですが、ともあれ東宮の座には皇弟の敦良親王が納まりました。
翌寛仁2年(1018年)には叔母の藤原威子(いし/たけこ。道長の四女)が入内。9歳年長の姐さん女房でしたが、夫婦仲はよかったようです。
しかし幸せばかり感じてもいられません。周囲の者たちが道長に遠慮して、威子のほかに誰も誰も入内しませんでした。
そうなると、威子には是が非でも皇子を産んでもらわなくてはなりません。
藤原一族、特に道長から多大なプレッシャーをかけられたことでしょう。