【光る君へ】藤原彰子が念願の男児出産!皇子・敦成親王(後一条天皇)はどんな生涯をたどったのか?:3ページ目
二人の娘と愛する妻と
入内から8年が過ぎた万寿3年(1026年)、威子は念願の子供を産みました!
「「「おおっ!どっちだ?」」」
が、産まれたのは女児。道長の落胆と、威子に向けた冷たい視線は想像に難くありません。
そんな中でも、後一条天皇は威子の味方でした。
「過去には女帝が立った例もあるし、女児でも男児でも我が子の可愛さには変わりない」
と威子をかばった後一条天皇。産まれた女児は章子内親王(しょうし/あきらこ)と名づけられます。
翌万寿4年(1027年)には道長が薨去、長元2年(1029年)には次女の馨子内親王(きょうし/かおりこ)が誕生しました。
やはり一族の視線は冷たく、威子にとっては後一条天皇の愛情と家族の絆だけがよりどころとなったようです。
しかし後一条天皇は体調が思わしくなく、長元9年(1036年)4月17日に29歳という若さで崩御してしまいました。
死因については諸説あり『栄花物語』では飲水(やたら喉が渇く)と痩身の症状が記述されており、糖尿病ではないかと考えられています。
夫を喪った威子は嘆き悲しみ、同年の内に後を追うように崩御したのでした。
あまりに突然な崩御によって譲位の儀式が間に合わず、その死を秘して敦良親王に譲位が行われたそうです。
終わりに
今回は敦成親王(後一条天皇)の生涯を駆け足でたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どのような人物に描かれるのでしょうか。藤原威子との愛情や絆も味わいたいものです。
これからの登場を、楽しみにしましょう!
※参考文献:
- 倉本一宏『人物叢書 一条天皇』吉川弘文館、2003年12月
- 山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』朝日選書、2007年4月