江戸時代のテロ未遂事件「慶安事件ー由比正雪の乱」の首謀者・由比正雪が革命へと突き進んだ理由
慶安事件
17世紀半ば、徳川の世が天下泰平に向かうなかで江戸幕府を震撼させたのが、慶安事件——由比正雪の乱です。
ご存じ、首謀者である由比正雪は、生活に苦しむ浪人を集めて幕府を転覆させるという革命を企てました。
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その計画は、まずは駿府(現・静岡市)の久能山に向かい、徳川家康の遺産を強奪します。そしてその資金によって全国から浪人を集めて軍を起こすというものでしたが、事前に発覚して計画倒れに終わりました。正雪は幕吏に取り囲まれて自害しています。
しかし、この事件によって名前だけは知られている由比正雪ですが、彼がいわばこの「革命」を志すまでの経緯は、はっきり分かっていません。
その経緯は何だったのでしょうか。それを知る手掛かりは、彼の生い立ちと来歴にあります。
「非武士」から軍学者へ
もともと彼の出自は武士ではなく、駿府宮ヶ崎町の紺屋のせがれだったと言われています。農民の子だったとする説もあるようです。
伝わるところによれば、正雪は十七歳のときに江戸に上り、軍学を学びました。その師は楠不伝といわれ、名将・楠木正成の子孫とされる人物です。
正雪は、そのもとで楠流軍学を習得しやがて江戸・神田連雀町の裏屋を借り、軍学指南として独立しました。彼の楠流軍学は江戸で評判を呼びました。
当時、江戸では小幡景憲の甲州流軍学や北条氏長の北条流軍学が評判でしたが、由比正雪の楠流軍学は目新しく、また「高砂やー」などと謡をまじえながらの講義が面白かったようです。
そんなこともあり、正雪の道場には旗本や大名の家臣、浪人らが続々と集まってきました。
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