もはやレジェンド!戦国時代、弓を片手に93歳まで戦場を駆け抜けた老将・大島光義
弓を片手に戦場を駆け抜け、弓技に長けた那須与一のような戦国武将がいました。その者の名前は大島光義(おおしま-みつよし)。
孤児を経験し90歳を越えた時は関ヶ原の戦いにおり、戦果を挙げた武勇はもはや伝説と言っても過言ではないほどです。
今回は生涯現役の権化とも言える光義を紹介したいと思います。
生き残る術は弓の鍛錬のみ
永正5年(1508)に光義は美濃国関大島又は山県郡で生まれますが、永正12年(1515)に父、大島光宗が山県合戦で戦死したことにより、幼いながら孤児となってしまいます。
その後は大島家の縁者、大杉家の者によって育てられます。
全てを失った光義に残されたのは弓のみで来るべき時に備えて、ひたすら弓の鍛錬を続けました。
そして13歳の時に美濃国人との戦闘で敵兵を射殺します。他にも鉄砲より早く矢を射たことや樹木の蔭に隠れた敵兵を樹木ごと射抜いて討ち取ったという光義のとんでもエピソードが存在しています。
国人たちを退けた後は斎藤家の家臣、長井道利に初めて仕えます。道利のもとで関・加治田合戦や織田信長による美濃攻略を経験します。
やがて、斎藤家が美濃攻略によって勢いを落とすと光義は信長にスカウトされました。
60歳で遅咲きの出世
信長に仕えてからは弓大将に命じられ、永禄11年(1568)に100貫の土地を得る出世を果たします。この時光義は60歳を迎える年齢。
第一線から退いても可笑しくない年齢なのにも関わらず、光義は姉川の戦い、坂本合戦で戦功を挙げていきます。
特に坂本合戦では信長から「白いつばなの指物をさして戦場を駆け巡っている様子はまるで雲のようだ。以降は雲八と名乗るように」と言われます。
元は宇八と光義は名乗っていましたが、これ以降雲八と名を改めました。
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