神道を信仰しキリスト教を嫌い続けた、戦国武将・大友宗麟の正室「奈多夫人」の壮絶すぎる人生

拾丸

九州地方の戦国武将・大友宗麟の2人目の正室として知られている奈多夫人

それだけではなく奈多夫人は、略奪婚されていたり、宣教師たちからイザベルと呼ばれていたり、自殺未遂していたりと宗麟とキリスト教に人生を翻弄された人物でもありました。

今回はそんな奈多夫人の悲劇的で波乱万丈な人生をご紹介します。

結婚していながら宗麟の妻となる

奈多夫人は九州一の美女として知られており、宗麟の家臣である服部右京亮に嫁いでいました。

しかし、奈多夫人の美貌に惹かれたか何かで、宗麟はあろうかことか自身の妻としてしまいます。加えて、宗麟の子を宿しており、ジェスタと呼ばれた娘を出産していました。

また、服部右京亮は宗麟の母方の叔父にあたり、甥の宗麟に妻を奪われた虚しさは計り知れなかったかと思われます。それが原因かは不明ですが、天文22年(1553)に謀反を起こした罪で服部右京亮は粛清。

夫を失った奈多夫人は、宗麟の正室として生きていくことになりました。

尚、宗麟には奈多夫人を正室にする前に一色夫人と呼ばれる正室がいましたが、家督相続した天文19年(1550)に離縁しています。

神道を信仰し、キリスト教に反発する

宗麟との間で大友義統(よしむね)や親家、親盛といった男児を生みました。跡取りを出産したにも関わらず、宗麟は複数の側室を持っていました。

そのことに不満だった奈多夫人は、国中の僧侶や山伏を使って女性へのお手つきを止めさせる祈祷をしたといいます。

また、父親の奈多鑑基(なた-あきもと)が奈多八幡宮の大宮司ということもあり、神道を信仰していました。

対して、宗麟や大友家中はキリスト教を信仰し始めていたので、これに反発したことで2つの事件を起こしてしまいます

3ページ目 自身の子に棄教を迫る 〜 子を避けたことで宗麟と不仲に

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