明治初期に日本を訪れたアメリカ人・グリフィスの手記にこんな一幕があります。
「品川にさしかかる前、道路横の田んぼの畦にほんの少し盛り上った草の生えている小さな空き地がある。見ると高さ6フィートの晒し台に人間の首が2つ晒してあるではないか」。
・・・いやあ、怖い!手記の中でもトップレベルで怖い場面です。でも江戸時代の刑罰は更に恐ろしいものもあったんです・・・。
江戸時代の刑罰に関しては以下の記事もぜひ参考にしてください。
蟄居、島流し、切腹など江戸時代の武士への刑罰にはどんなものがあったの?
江戸時代にはどんな刑罰があったのでしょうか。[caption id="attachment_77241" align="aligncenter" width="660"] 歌川国芳「高僧御一代…
屈辱、魚を咥えさせて放り出す!江戸時代、女犯を犯した僧侶への本当にあった刑罰
以前、江戸時代の武士への刑罰を紹介しましたが、今回は僧侶のケースを紹介します。[insert_post id=77148]言わずもがなですが、僧侶は禁欲的な生活を強いられます。性欲、食欲、…
放火犯は火あぶり
「死刑は梟首・刎首・絞殺に限る」・・・こんな御触れが出たのが明治元年11月の事。それ以前、つまり江戸時代には火あぶりの刑や磔の刑が普通に行われていたという事です。手記を書いたグリフィスさん、晒し首の光景で充分衝撃を受けていらっしゃったようですが、それはまだマシで、江戸時代にはもっとエグい刑が行われていたのですね。
例えば、放火犯は火あぶりと決まっていました。有名なのが鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された八百屋お七ですね。「火には火を」という事だったのでしょうか。
罪人の周りに燃えやすい茅などを積んで火をつけ、あおいで火を強め、終盤で鼻を焼き、最後には男性は男性器、女性は乳房を焼いて終了。しばらくは埋葬もせず晒されたそうです。