非情なまでの兵糧攻め!餓死者が続出、恐ろしいほど徹底した豊臣(羽柴)秀吉による「鳥取城の戦い」の戦略
戦国時代の三英傑のひとりであり、日本の歴史上でも知らない人はいないであろう「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」。足軽という身分から、天下統一を果たすまでの彼の激動の人生はドラマチックですよね。
今回の記事では、そんな豊臣秀吉が行ったもののひとつ「鳥取城の戦い」について詳しくご紹介していきたいと思います。
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鳥取城の戦いとは?
鳥取城は、織田信長が「名城」と評したお城です。戦国時代の山城を起源として、江戸時代には鳥取藩の居城として整備されました。日本最長の城郭復元木橋「擬宝珠橋」や日本唯一の球面石垣「巻石垣」などが有名です。
織田信長の命令により、毛利氏を討つことを目的として中国攻めが行われていました。秀吉はこの中国攻めにおいて数々の城を落としていきますが、鳥取城の戦いもそのうちのひとつ。
鳥取城攻めは2回行われています。1回目は1580年のこと。4~6月にかけて、鳥取城主であった山名豊国を降伏させます。山名豊国は彼の家臣によって追放され、新たな城主として毛利氏の重臣・吉川経家を迎え入れます。
2回目は1581年のことで、20,000の軍勢で鳥取城を攻めました。
鳥取城の戦いの恐ろしさ1:攻める前に入念な包囲網を形成
豊臣秀吉軍は、黒田官兵衛が兵糧攻めを提案し、それを採用することにします。攻める前に、豊臣軍は鳥取城を70箇所以上の陣を敷いて包囲しました。
これにより、鳥取城は完全に孤立してしまい、支援ルートは断絶されてしまいます。
鳥取城の戦いの恐ろしさ2:事前に米を買い占める
包囲に加え、豊臣軍は鳥取城下の米の買い占めも事前に行いました。これは、食料をなくし、籠城戦をより早く終わらせるためでした。
通常価格よりも高い値段で米を買ったと言われていますが、略奪や苅田も行われたという説もあります。これにより、一気に米不足に。
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