伊周・隆家兄弟の没落確定…誤解から放たれた矢が花山院に!大河ドラマ「光る君へ」5月12日放送振り返り:3ページ目
若狭に漂着した70名の宋人
長徳元年(995年)、現代の福井県西部にあたる若狭国へ、宋から70余人がやってきたそうです。
その中に商人の朱仁聡(浩歌)や見習い医師の周明(架空の人物。松下洸平)がおり、後にまひろたちと交流することになると言います。
恐らくは亡き直秀(毎熊克哉)たちのように、彼らとの交流がまひろに影響を与えることになるのでしょう。
はじめ若狭国には彼らを迎え入れる施設がないため、東隣の越前国へ移してはどうかという道長の進言を聞いたまひろは、父・為時に越前守(国司長官)を願い出るよう勧めていました。
これに対して為時は「自分には淡路守さえ過ぎた望みだ」と断ります。
しかし実際にはいざ淡路守の辞令が届くと、血の涙を流して(という文言の書状を送って)抗議したことにはふれないでおきましょう。
※朱仁聡について
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※為時の再任官について
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