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妻と妹の七光り?で大出世!蛍大名と呼ばれた戦国武将・京極高次の出世までの軌跡を紹介

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迷った末に選んだ関ヶ原の戦い

秀吉が没した後、徳川家康と石田三成の対立が表面化します。そして、上杉征伐が始まると高次は弟の高知を家康に同行させます。

しかし、西軍からも勧誘が来てしまい、迷った末に嫡男を人質に出して西軍に味方しました

高次は西軍と共に出陣しますが、海路を経て大津城に戻った後、東軍の井伊直政に西軍を裏切り大津城で足止めすることを伝えます

高次の行動を知った西軍は毛利輝元の叔父・毛利元康立花宗茂に大津城の攻略を命じます。

9月7日に始まった大津城の戦いは1万5000人(4万人に増したと言われている)の西軍に対し、3000人の兵で耐え忍ぶも大砲と総攻撃を受け、14日に降伏。

15日に開城し、剃髪した高次は高野山に送られるもその日に関ヶ原本戦で三成率いる西軍が敗北しました。

戦後、西軍を引き留めた高次の功績を家康は高く評価しました。

下山した後に高次は若狭国(現在の福井県南部)8万5000石の加増と転封を命じられ、国持大名となりました

そして、慶長14年(1609年)47歳で病没。跡は長男の忠高が継ぎました。

参考:火坂雅志『戦国を生きた姫君たち』‎2016年、KADOKAWA

 

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