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妻と妹の七光り?で大出世!蛍大名と呼ばれた戦国武将・京極高次の出世までの軌跡を紹介

妻と妹の七光り?で大出世!蛍大名と呼ばれた戦国武将・京極高次の出世までの軌跡を紹介

情勢が読めず、負けた側に付いた

そのまま信長の家臣となった高次は近江国に5000石の領地を与えられました。

順調にいけば織田の家臣として終えるはずが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こります。

弔い合戦として起こった山崎の戦いで高次は、妹・竜子の嫁ぎ先だった武田元明(若狭国の守護大名)が光秀に味方したため、明智方につきました

戦いの結果は明智方の惨敗で、高次は追われる身となってしまいます。

この時に頼ったのが、お市の方の再婚先だった柴田勝家。しかし、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いを機に起きた北ノ庄城の戦いで勝家が自害すると、高次は遂に路頭に迷ってしまうことになります。

妹のおかげで近江の大名に

光秀や勝家が滅ぼされ、頼る先を失った高次でしたが、天正12年(1584)に転機が訪れます。それは妹の竜子が豊臣秀吉の側室となったことでした

竜子の嘆願のおかげで、高次は近江国高島郡2500石を与えられました。また、九州征伐の功績により1万石を与えられ大名に返り咲きます。

天正15年(1587)には長政の娘で従兄弟だった初を正室に迎えると共に、文禄4年(1595)に加増と近江の大津城の城主に命じられました。

高次は領地を失った京極家を一代で近江国(現在の滋賀県)の大名まで飛躍させました。

3ページ目 迷った末に選んだ関ヶ原の戦い

 

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