時は慶長5年(1600年)9月15日。徳川家康が率いる東軍と、石田三成の率いる西軍が美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)の地で激突しました。後世に伝わる関ヶ原の合戦です。
両軍合わせて十数万とも言われる大軍勢がぶつかり合った様子はまさに天下分け目の大勝負。その壮大なスケールが絵師たちによって描かれました。
そんな「関ヶ原合戦図屏風」を眺めていると、主に絵の右側(徳川軍)で「伍」と書かれた旗指物を背負っている武将をチラホラ見かけます。よく見ると、陣羽織の背にも「伍」が書かれているようです。
いったい彼らは何者なのでしょうか。あの「伍」には、どんな意味があるのでしょうか。
「伍」の字は徳川家康の命を受けた使番の証し
「伍」の旗指物や陣羽織を身に着けている武将たち。彼らは使番(つかいばん。古くは使役)と言って、命令を伝える役目を担っていました。
いわゆる伝令将校ですが、たかが使い走りとあなどるなかれ。徳川家中でも、相応の身分≒信頼と実力ある者が務めています。
(情報の正確迅速な伝達は戦場における死活問題ですから、めったな者には任せられませんでした)
「伍」を用いたのは徳川家康直属の使番に限られ、この字は「互」に通じ、互いに助け合う仲間という意味があったと言います。
現代でも隊伍(仲間の集団)・列伍(仲間入りする)・落伍(仲間から外れる)などと使われていますね。
家臣や友軍は「伍」の旗指物や陣羽織で味方(徳川方)と識別し、家康からの命令を承ったのです。激しい戦闘で「伍」の旗指物がちぎれてしまっても、陣羽織で何とか識別したことでしょう。