手洗いをしっかりしよう!Japaaan

大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 商人として活躍した茶屋四郎次郎、実は武士としても有能だった【どうする家康】

商人として活躍した茶屋四郎次郎、実は武士としても有能だった【どうする家康】:2ページ目

さて、清延は最初から商人だった訳ではなく、元は家康の側近として仕えます。戦場に出ること53回、武田信玄(演:阿部寛)と対決した三方ヶ原の合戦(元亀3・1572年12月22日)では逃げる家康を守って武勲を立てました。

命からがら逃げのびた家康は、生き残った四郎次郎に橘(たちばな)の花をとってこれを与えます。

「橘はめでたい花じゃ。これからそなたの家紋といたせ(橘はこれ瑞祥なり、宜敷以て汝の家紋とすべし)」

橘は香り高く、寒さに強いことから仁徳を備えた奥ゆかしい人物の喩えともされる花です。

また内裏紫宸殿の庭には左近の桜と共に右近の橘が植えられており、左近の桜を本多忠勝(演:山田祐貴)、右近の橘を茶屋四郎次郎と見なしたのかも知れません。

後に「花も実もある武士」と称された本多忠勝に次ぐ(左が上位)くらい厚く感謝・信頼されたことでしょう。

やがて京都で呉服商を継いだ茶屋四郎次郎は、兵具の調達や上方の情報を伝えるなど重要な役割を果たしました。

そして天正10年(1582年)6月2日に織田信長(演:岡田准一)が本能寺で横死すると(本能寺の変)、堺にいた家康たちにいち早く急報を伝えます。

本多忠勝らと力を合わせて家康は三河へ脱出成功。これが家康三大危機の一つ「神君伊賀越え」です(残り二つは、三河一向一揆と三方ヶ原合戦)。

まさに家康の左右を補佐して天下取りへと導く「左近の桜、右近の橘」として活躍したのでした。

終わりに

この功績をもって徳川家の御用商人となった茶屋四郎次郎は慶長元年(1596年)閏7月27日に52歳で世を去りました。

以来「茶屋四郎次郎」の名前は代々襲名され、息子の清忠(きよただ)・清次(きよつぐ)たちに受け継がれていきます。

実際には武士としても有能だった茶屋四郎次郎。大河ドラマの劇中でも、その片鱗を覗かせてくれると嬉しいです。これからも、中村勘九郎さんの好演から目が離せませんね!

※参考文献:

  • 足立政男「近世における京都室町商人の系譜(1)」
  • 中田易直「茶屋四郎次郎由緒考」
 

RELATED 関連する記事