江戸時代、庶民に法令や禁止事項などを伝えた「高札」「触」どのように使い分けられていた?
武士や寺院に対する諸法度や、キリシタンへの禁令、あるいは「生類憐れみの令」などのように、江戸時代には、多くの法令が出されました。武士に対しては幕府、もしくは各藩から法令が伝えられましたが、庶民へは「高札」(こうさつ)を用いて、知らしめられました。
高札とは、五角形の板に様々な決まりごとが記されたもので、宿場町など人が集まる場所の一部に屋根つきの高札場が設置され、高札はその下に立てられたのでした。ただ、全ての条項がそこに記されたわけではありません。「三箇条」「五箇条」などというように、基本的な事項のみ抜粋して書き記されていました。
高札を作成したのは、各藩の大名です。幕府から法令の基本事項を渡され、それに基づいて作成されたといいます。その後、高札は将軍の代替わりごとに作り直されましたが、基本的な法令が記されるのみでだったので、内容はそれほど変化はなかったようです。
そのような経緯もあり、八代将軍吉宗以降は、同じ高札が使い続けられることになったようです。ただ、雨などで字がにじんだり、風化して読みづらくなったりしたものは、その都度書き直しが命じられました。
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