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関ヶ原に遅参した秀忠を許す?どうする?家康を諫めた本多正信のエピソード【どうする家康】:2ページ目
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そこまで言った家康の口へ、とっさに手を押し当てたのが本多正信。
「暫く!その先は言わせませぬぞ」
「ぶはっ……佐渡、何をするか!」
「その御短気で三郎(徳川信康)様を失われたのに、まだ懲りませぬか!」
ついカッとなって勢いで物事を決めた結果、大事な嫡男であった徳川信康(のぶやす)をみすみす切腹させてしまった苦い思い出が脳裏をよぎります。
「……あの時、織田殿の言われるままに死なせてしまったが、よく調べるなり弁解するなり手はあったやも知れんなぁ」
「左様。いっときの感情で取り返しのつかぬことをなされては、必ずや後で悔やまれましょうぞ」
「……相分かった」
かくして秀忠は遅参の罪を赦され、ぶじ徳川の家督を受け継いだのでした。
終わりに
七四 関ヶ原御一戦の時、秀忠公木曽路御登り候處、真田安房守支へ申すに付、御遅参なされ候。家康公御立腹にて、「佐抛大明神も御照覧候へ。汝が顔を二度……」と仰せられ候時、本多佐渡守御口に手を當て、「先はいはせ申さず候。その御短気故三郎殿御失ひ、未だ御懲りなされず候や。」と申され候に付て、その儘御座を御立ちなされ候由。秀忠公は関ヶ原御遅参、御一生御後悔の由。佐渡守殿老後には、御前にて安座頭巾御免なされ候由。
※『葉隠聞書』第十巻より
この功績により、秀忠が江戸幕府の第2代将軍となった時、正信は将軍の前でも安座(あぐらで座る)と頭巾(通常、かぶりものは脱ぐ)を許されたと言います。
ただ一度の失態ですぐに見捨てず、受け入れたからこそ永く続いた徳川の世。家康の短慮を諫めた本多正信の功績は、実に大きなものと言えるでしょう。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月
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