「高野山」は“社会的な死”を意味する?聖地に送られた戦国武将たちの非情すぎる末路
和歌山県の高野山といえば、弘法大師・空海ゆかりの聖地。奥之院の参道には、名だたる戦国武将たちの墓所が並び、まるで戦国史の巨大な霊廟のようです。
ただし、そこに必ず本人の遺体が眠っているわけではありません。供養や家の格式を示すために建てられた墓も多く、高野山は武将たちにとって「死後の名誉」を象徴する場所でもありました。
しかし一方で、高野山は“敗者が送られる場所”でもありました。
出家、蟄居、幽閉、切腹――。信長や秀吉の怒りを買い、表舞台から追われた武将たちにとって、高野山行きは単なる隠居ではなく、時に“社会的な死”を意味したのです。
今回は、そんな高野山で運命を狂わされた戦国武将たちを紹介します。
佐久間信盛(1528?~1582)
佐久間信盛は織田信長の重臣として重用された勇猛果敢で知られた武将です。
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1570年、彼は大坂本願寺(石山本願寺)の攻略を命じられます。しかし、相手が寺院とはいえ周囲は頑丈な石垣で囲まれ、5年もの間成果を上げることができませんでした。
結局、天正8年(1580)3月、大坂本願寺は信長に屈しましたが、信長の怒りは収まらず「19ヶ条の折檻状」を信盛に突き付けます。その内容は下記のようなものでした。
- 5年間も目立った功績がない
- 積極的な攻撃や調略を行わなかった
- 部下の統率が不十分だった
- 自分の利益ばかり考えている
などの点を厳しく批判しました。
信長は、本願寺を下記の点で攻略したかったのです。
天下統一の障害…石山本願寺は現在の大阪城周辺にあり、浄土真宗の門徒を全国に抱える巨大な宗教勢力でした。本願寺の法主が呼びかければ多くの門徒が武装して戦うという、武装勢力の一面も持っていました。彼らによる一揆への警戒もしていました。
交通・経済の要衝を押さえていた…石山本願寺は瀬戸内海と京都を結ぶ水運の重要地点にありました。物流・税収・畿内の支配を手中に収めたかったのです。
敵対勢力の拠点になっていた…石山本願寺は武田勝頼や、朝倉義景などの反対勢力としばしば連携しました。
5年という期間は天下統一をしたい信長には痛い年月だったといえるでしょう。失脚した信盛は長男・信栄とともに高野山(和歌山県高野町)へ向かい、出家の生活を送ることになり、翌年、紀伊国熊野で非業の死を遂げます。


