そうだったの!?徳川家の家紋「葵紋」の由来と歴史を紹介【どうする家康】:2ページ目
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三河国の武士たちは葵紋を使用していた
松平家を含め、三河国の武士たちは賀茂神社と縁がありました。そのため、本多家や伊奈家、島田家も葵紋を使用していました。
しかし、家康が征夷大将軍に就任すると、葵紋を特別な家紋にするために使用を制限。伊奈家と島田家は使用できなくなりました。
本多家は、特別に幹を付けた「丸に立葵」の使用を許されています。その理由として、『本多家譜』に本多家の祖先が賀茂神社の神官で立葵を家紋にすることの記載と、本多家が松平家に葵紋を譲ったからではないかと考えられます。
家康の本来の家紋は銀杏紋だった?
実は、家康の父・松平広忠の墓所には葵紋ではなく、「三つ剣銀杏」の家紋が入っています。このことから、家康の先祖に当たる得川親氏(とくがわ-うじちか)は三つ剣銀杏の家紋だったことがうかがえます。
そして、親氏が松平家に婿入りしてからは、葵紋が家紋になりました。しかし、広忠の墓所を見るに、家康の時代まで葵紋は定着しなかったと考えられます。
最後に
徳川家の家紋の代表として知られている葵紋。元をたどると、賀茂神社の神紋だったのは意外な発見でした。また、葵紋は本多家と深い関係があり、徳川家を代表する家紋になる前は本多家を代表する家紋であることは驚きですね。
どうする家康では、家紋について触れられることはないと思いますが、知っておくとより家康の理解が高まるはずです。
※参考文献:家紋の秘密研究会『もっと知りたい家紋の秘密』リイド文庫、2012年
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