1902年1月、冬季軍事訓練中だった日本陸軍210名中199名もの死者を出した世界最大級の山岳遭難「八甲田雪中行軍遭難事件」は、120年経つ現在も痛ましい事件として語り継がれています。前編では、地元住民の反対を無視して山へと入ったことがそもそもの発端だったことを紹介しました。
■前編の記事
死者続出…人為的要因が引き起こした世界最大級の悲劇「八甲田雪中行軍遭難事件」【前編】
後編では、帰営する兵の多くが命を落とした要因や生還までをお伝えします。
遭難のはじまり
行軍から2日目の1月24日、昼になると寒気を訴える兵が続出。凍傷者がでることを恐れた将校らによって帰営の決断が下されました。
1月25日の午前3時半頃、歩兵第5連隊は八甲田山から約13km離れた馬立場を目指していました。しかし、峡谷のなかに迷い込んでいまいます。帰営しようにも帰り道が分からず、やむなく2日目の野営地に引き返すことになってしまったのです。
このとき、特務曹長である佐藤が田代新湯への帰り道が分かると申し出ていたため、歩兵第5連隊隊長の山口少佐は独断で案内を命じます。しかし、佐藤は手柄のために嘘をついていただけで、帰り道など知らなかったのです。
山口少佐がこのことに気付いたとき、すでに事態は手遅れとなっていました。歩いてきた道は吹雪によってかき消されており、部隊は遭難状態となっていたのです。
3日目・死者
部隊が遭難状態となってすぐ、第4小隊の水野忠宜中尉が卒倒して凍死。さらに、崖を登る際、力尽きて落伍する者が相次いだとされています。生還者の発言によると、部隊の4分の1がこのときに凍死または落伍で亡くなったそうです。
当時、このときの天候は風速29m/s。気温マイナス20~25度以下、積雪は6~9mという最悪の環境だったと推測されています。
4日目・捜索開始
1月26日、連絡がつかなくなった歩兵第5連隊の捜索部隊を結成。約60名が参加し、地元住民協力のもと捜索活動が行われました。
しかし、気温の低さと激しい風雪が原因となり、早い段階で捜索が打ち切られています。
5日目・発見
捜索が再開。午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が雪の中にたたずむ「後藤房之助伍長」を発見。しかしこのとき後藤は仮死状態にあったとされ、小隊が大声で駆け寄ったときに意識を取り戻したと言います。意識を取り戻した後藤は「神成大尉!」と叫び始めたそうで、周辺を捜索した結果、神成大尉の遺体が発見されました。