戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【前編】:2ページ目
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真田幸隆の活躍
ところで当時、信濃攻略を進める信玄の前に立ちふさがっていたのが村上義清でした。天文17(1548)年の上田原の戦いでは、信玄は重臣を失って義清に敗北しています。
さらに信玄は2年後の天文19(1550)年に7千の兵を率いて義清の本拠地である砥石城(戸石城)を攻めたものの、攻略できずに大敗しています。撤退する際、村上軍の追撃を受けたのです。
しかし翌年の天文20(1551)年、真田幸隆はたった半日で、しかも一兵も失うことなく、独力で砥石城を攻略します。
このとき、彼は義清に属していた弟の矢沢頼綱を調略することによって内部から切り崩し、城を乗っ取ったのです。
この内部工作で活躍したのが、禰津信政や望月六郎らが組織した真田忍軍でした。
実は、真田幸隆や海野一族にとっても、義清は宿敵といえる存在でした。天文10(1541)年の海野平の戦いで海野一族は敗北し、領地を追われていたからです。
こうした背景もあり、彼らは義清に対して一矢報いたのでした。
真田忍軍のさらなる活躍と、その最期については後編でお話しします。
参考資料
刀剣ワールド
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