父・北条義時(ほうじょう よしとき)の跡を継いで武士の世を盤石のものとした北条泰時(やすとき)。
武家の基本法となる御成敗式目(ごせいばいしきもく。貞永式目)を定めるなど多くの実績を残した泰時ですが、その陰には彼を支える優秀な家人たちの姿がありました。
今回は泰時の家司として手腕を発揮した平盛綱(たいらの もりつな)を紹介。果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
平清盛の子孫?泰時の片腕として活躍
平盛綱は生年不詳、『系図纂要』によれば平清盛(きよもり)から数えて5代の子孫(来孫-らいそん)に当たります。
【平盛綱略系図】
平清盛-重盛-資盛-盛国-国房-盛綱※『系図纂要』平氏 二より
※ただし『尊卑分脈』では盛国、国房がいない(清盛の曾孫)
元服して通称は三郎、兵衛尉(ひょうゑのじょう)の官職を得て三郎兵衛尉と呼ばれました。
平家の一族がどのような経緯で泰時に仕えたのかは定かでないものの、承久の乱(承久3・1221年)では泰時率いる18騎の一人として東海道を上洛します。
貞応3年(1224年)に義時がなくなると、北条の家督争い(伊賀氏の変)で泰時の身辺を警護。対立する北条政村(まさむら)派に睨みを利かせました。