大河ドラマには登場する?北条泰時を支え続けた平盛綱の活躍を紹介【鎌倉殿の13人】:2ページ目
泰時が執権となってからは政所吉書始(まんどころきっしょはじめ。開所式)で奉行を務めるなど実務面でも泰時を補佐。貞永元年(1232年)8月10日の御成敗式目制定にも貢献したと言います。
また貞永元年(1232年)7月15日には和賀江島(わかえじま。鎌倉沖合の人工港)の建設を指揮し、8月9日に竣功。これで鎌倉を拠点とする海外貿易が可能となったのです。
かつて第3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)が果たせなかった渡宋の夢を、叶えてあげたかったのかも知れませんね。
これまで多くの場面で行動を共にしてきた尾藤景綱(びとう かげつな)が病気のため天福2年(1234年)8月21日に引退すると、盛綱はその後継者として北条家の家令(かれい)に就任。
これで一安心。北条家を託すかのように景綱は翌8月22日に亡くなりました。
仁治3年(1242年)6月15日に泰時が60歳で亡くなった年、盛綱は出家して盛阿(せいあ/じょうあ)と号します。
盛綱の没年については不明ながら、『吾妻鏡』建長2年(1250年)3月1日の記録で亡くなっていること(相続人の存在)が確認されるため、出家後数年で亡くなったのでしょう。
終わりに
以上、泰時を支え続けた平盛綱の生涯をたどってきました。
その後も北条経時(つねとき。泰時の孫で第4代執権)・北条時頼(ときより。経時の弟で第5代執権)を支えたということです。
やがて盛綱の子孫は所領(伊豆国田方郡長崎郷。現:静岡県伊豆の国市)の地名から長崎(ながさき)氏を称します(長崎県とは関係なし)。
そして北条得宗家を内から支える内管領(うちのかんれい。家令の後身で、御内頭人とも)として、時に執権以上の権勢を振るうのでした。
【長崎氏略系図】
平盛綱(家祖)-盛時-頼綱-宗綱
長崎光綱(※)-円喜-高資-高重(※)は系図不詳(長崎光綱は頼綱の親族と言われる)
果たして平盛綱は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にどんな形で登場するのでしょうか(それとも割愛されてしまうのでしょうか)。
もし登場するとしたら、キャスティングも楽しみですね!
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要 平氏 二』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 藤原公定 撰『尊卑分脈 十二』国立国会図書館デジタルコレクション
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、1999年12月