17ヶ所もの銃弾を浴び討死!政治家・武人としても超有能だった武田四天王「山県昌景」の生涯:2ページ目
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昌景の死と「赤備え」のその後
さて同年12月、信玄は駿河へ侵攻し、わずか7日間で制圧します。
この時、家康も密約を守って遠江へ侵攻しますが、ここで昌景は家康との約定を破り、大井川を超えて遠江へと侵攻します。そして両者の兵が鉢合わせして小競り合いが発生。これが原因で、武田・徳川の同盟は決裂しました。
しかし昌景が処罰されたという記録はなく、もともと信玄は最初から家康との約定を守る気はなく、遠江侵攻は信玄の密命だったと言われています。
むしろ、昌景はこの行動が評価されたのか、永禄12(1569)年には対徳川の最前線となる駿河・江尻城代に任じられました。
その後、元亀4(1573)年4月に信玄が病死すると、昌景たち重臣は勝頼の補佐を任されます。
勝頼は父・信玄の遺志を継いで積極的に織田・徳川領へと侵攻します。翌天正2(1574)年には、昌景が織田方の東美濃・明智城を攻略し、巧みな戦術で織田勢を撤退させました。
その後も織田・徳川軍との戦いは続き、天正3(1575)年5月の長篠の戦いで、彼は討ち死にします。
もともと彼は長篠の戦いでの武田方の不利を悟っており、勝頼に撤退を進言していました。しかし聞き入れられず、彼は1500の兵で6千余の徳川軍の敵陣へと突入。奮戦もむなしく、馬上で17ケ所に銃弾を浴び命を落としました。
武田勢の強さを肌身で感じていた家康は、武田家が滅亡した後に、遺臣たちを積極的に家臣団に組み入れ、「赤備え」として井伊直政に指揮させています。
昌景は戦死したものの、彼が率いた「赤備え」は、戦国最強の部隊として井伊直政から大阪の陣の真田幸村へと受け継がれました。
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