上杉謙信の「敵に塩を送る」は商戦でも美談でもなかった?そこには今川氏真の策略が!
牛つなぎ石と「敵に塩を送る」の伝説
「敵に塩を送る」という故事は上杉謙信(うえすぎけんしん)の美談として有名です。
松本市の繁華街、中央2丁目の交差点にこの故事の伝承地とされる「牛つなぎ石」が今でも残っています。
「塩を送る」ことと「牛つなぎ石」が、どのように関係しているのでしょうか。
当時、糸魚川から送られた塩は千国街道を通って松本へ運ばれました。
永禄11年(1568年)1月12日、この「牛つなぎ石」のある場所に塩を積んだ牛車が着き、運んできた牛を休ませるために繋いだのがこの石であるとされているのです。
しかし実際は、この石は「道祖神」であり、江戸時代初期に松本の城下町ができた時に別の場所から移されてきたものだそうです。戦国時代にはまだなかったんですね。
この地は、江戸時代以降、毎年1月11日に塩の売り買いが行われる「塩市」が立つ場所でした。
この「塩市」の起こりが「上杉謙信が敵に塩を送った」ことであるという言い伝えから、この石が「牛つなぎ石」として言い伝えられるようになったそうです。
さて、この「敵に塩を送る」という故事、一般的には次のような内容で知られています。
武田信玄(たけだしんげん)は、桶狭間の戦いによって弱体化した今川家との同盟を破棄し、駿河への侵攻を企んでいました。
それを察知した今川氏真(いまがわうじざね)が、妻の父である北条氏康(ほうじょううじやす)と協力して取った対抗策が、塩の流通を止める「塩留め」でした。
領内に海を持たない武田家は、同盟国の今川・北条から塩を購入していたため、武田領の甲斐・信濃・上野の領民たちは困窮します。