上杉謙信の「敵に塩を送る」は商戦でも美談でもなかった?そこには今川氏真の策略が!:3ページ目
策士・今川氏真
上杉家は、武田・北条・今川の三国同盟と対立して長年激戦を繰り返していましたが、謙信が担ぎ上げていた近衛前久が京都に遁走してしまい、関東で戦う意義を失っていました。
謙信は東国の戦争を終結させたいと考えていました。将軍就任を望み越前に滞在していた足利義昭も、彼らと和睦して上洛するよう謙信に要請していました。
この要請は三国同盟側にも伝えられており、これを好機とみた信玄は侵攻先を上杉領から弱体化した今川領に変更することを考えていたのです。
これに危機感を覚えた氏真は次のように考えたのです。
武田領内を塩不足に追い込めば、上杉領から信濃と上野の武田領に輸出されている塩の値段は高騰する。その結果、領民は、塩留めを実行させた氏真よりも、目の前で暴利を貪る商人とその背後にいる上杉を恨むことになるのではないか? そうすれば、長年敵対していた両家の関係は簡単に破綻するのではないか?
氏真、実はなかなかの策士だったのですね。
謙信としては武田家と和平交渉を進めている最中で恨みを買うわけにもいきません。しかし今川や北条の機嫌も損ねたくないので、「信玄と合戦する気はあるが、経済戦争には加担しない」と断った上で塩の値段をコントロールしたのです。
この謙信の対応により、武田の領民は塩不足で苦しまずに済みました。「敵に塩を送る」の実態は商戦でも美談でもなく、謙信の綱渡り外交から生まれたものだったのです。
いずれにせよ、この謙信の対応により武田領内の領民が救われたのは間違いありません。
「牛つなぎ石」ひとつの由来を辿っていっても、こんな歴史的背景があるのです。
参考資料