松下幸之助も絶賛!戦闘・統治・人心掌握まで、なんでもござれの武将・加藤清正の伝説:2ページ目
虎退治から関ケ原まで
「虎殺し」の逸話も残っています。
朝鮮出兵の折、虎から家臣が殺されたため怒った清正は、山狩りをして虎を槍で一突きにして倒したそうです。
古橋左衛門又玄による伝記『清正記』には、虎の皮を秀吉に贈ったことが記されており、また彼が虎と対峙した時の絵も、浮世絵などの作品でたくさん残っています。
一方、機を読むに敏なところもあり、関ケ原の戦いでは東軍の武将として戦に参加しています。これは、西軍の大将である石田三成と仲が悪かったためといわれています。そして西軍の小西行長・立花宗茂を破り、恩賞として小西の領地肥後を与えられ、52万石の大名となっています。
その後、慶長16年(1611年)、徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見に立ち会い、帰国後の熊本で病死しました。
清正の死因は諸説あり、徳川家による毒殺説もあります。これは清正と浅野幸長の両名が同じ時期に急死したためで、その不自然さから毒殺ではないかされているのです。
この毒殺説を題材とした歴史小説には、池波正太郎の『火の国の城』(1971年)があります。