意識高すぎ?江戸時代の儒学者・新井白石の蕎麦好きが高じて詠んだ漢詩作品がコチラ!:2ページ目
皚皚、鸞刀、翠釜……言葉の限りを尽くした蕎麦絶賛
漢詩の冒頭に出て来る皚皚とは白いこと、特に輝きを帯びた白さの表現であり、蕎麦粉そのものの透き通るような白さはもちろん、これからこれが美味い蕎麦へと生まれ変わる期待感、昂揚感が伝わってきます。
鸞刀とは鸞(らん。空想上の鳥)のデザインをあしらっており、古代中国で神様への生贄を屠殺する時に用いた特別な刀ですから、蕎麦の麺が形作られる重要なシーンを担うに相応しい表現と言えるでしょう。
また翠釜の翠とは「みどり」、この場合はグリーン(色)ではなく豊かなこと、つまりたっぷりのお湯がグラグラと沸騰し、波が幾重にもたたまれるように重なり立っている、蕎麦を茹でるのに理想的な状態を指しています。
薬味には大根おろしと刻みネギを入れており、その香りがお椀いっぱいに広がる……まさに至福の香りと言えるでしょう。
最後の「肯て麻飯を将て天台を訊わんや」とは、古代中国の逸話集『蒙求(もうぎゅう)』にある「劉阮天台」というエピソード(※)に基づいています。
(※)昔々、劉晨と阮肇という二人が天台山に迷い込んでしまい、川上から流れて来た胡麻飯のお椀をたよりに進んでいくと、山奥に仙女が住んでいて、最高に美味い胡麻飯でもてなしを受けたそうです。
……でも、いま目の前には究極に美味い蕎麦があるのだから、わざわざ胡麻飯なんか食いに天台山くんだりまで行く必要はないのである……と締めくくっています。
これでもかと言葉の限りを尽くした蕎麦絶賛のオンパレード。いつか冥途の向こう側へ行ったら、白石先生の蕎麦談義を拝聴したいものですが、いざ蕎麦を目の前にしたら
「御託はいいから早く食え、蕎麦がのびちまうだろうが!」
などと言われてしまいそうな気もします。何だかんだと言っても、やっぱり蕎麦は一気に啜り込むのが一番ですしね(くれぐれも噎せないようご注意下さい)。
※参考文献:
- 鈴木健一『風流 江戸の蕎麦 食う、描く、詠む』中公新書、2010年9月